排尿(06/12/12)
宝物
『非日常的な日常』
私はいろんな場所におしっこをする。
洗面器、ビールジョッキ、コンビにのビニール袋、紙おむつの中。
もちろん普通にトイレですることの方が多いのだけど、ほとんど全部那智さんに見てもらう、そして、拭いてもらう。
那智さんは、私におしっこを飲ませる時には「飲ませたい」「飲ませてあげる」という可愛がる感情が働いている。
では、私のおしっこをする姿をほぼ全部(お店の中とかはなしでね)見るのは、どんな感情が働いているのだろう。
本当にほぼ毎回だ。
見ていないのは、数年の付き合いで2、3回あるかないか。
タバコを吸っていても、ベッドでくつろいでいても、遅れてでも来てくれる。
くつろいでいる時などは、申し訳ないから「いいですよ、ひとりで行きますから。」ともじもじして言うけど、よいしょと腰を上げて来てくれる。
何か取り込み中の時は「まだ、ダメ」と我慢させたりもする。
それで、おしっこが出ている様子を見て、私をからかったり気持ちよくさせたりする場合もるけど、足も開かせずただ眺めていて、最後拭くだけなんてこともある。
これは、どんな感情なのでしょう。
多分、はじめのころは「恥ずかしがるりん子」を見るのが楽しかったはずだ。
現に、とても恥ずかしかった。
付き合って間もないころ「このまま一年間くらいおしっこをするところを見て拭いて、その後自分で拭かせたらどんな気持ちになると思う?」と聞かれたことがあった。
「多分、寂しいと思ってしまうと思います」と答えた。
「自分で拭くことが、恥ずかしくなるはずだよ。」というお返事。
そのときは、そうか、もっと恥ずかしくなるためにしているんだなと思った。
それは間違いではない、でも、やっぱり私の答えが私の気持ちに一番近かったと思う。
「寂しい」のだ。
見てもらえなくて、拭いてもらえないと、寂しいの。
いつからそう思うようになったのかははっきりしないけど、きっと私がそう感じるのと同じように那智さんの中でも、おしっこをする姿を見る拭くことの意味合いが変わって来ているのではないかしら。
恥ずかしがらせたいは、もちろんあるでしょうけど、「委ねさせ、委ねている」私たちの関係の象徴のような行為になっているように思う。
小さい子の世話をしているみたいな行為。
だから、毎回見る、見てあげる、とにかくチラッとでも見る(笑)
先にトイレに入っていて「そろそろ出ます〜那智さ〜ん」なんて呼ぶ(笑)
いやらしい空気ではなく、なんだか微笑ましいくらいだ。
もし私たちが夫婦だったら、そんな毎回付き合っていられませんね、なんて言ってみたり。
それでも、微笑ましくならずに、性的な空気になる時もある。
おしっこしてもいいですか?
ホテルの入って、すぐにトイレに行きたくなってしまった。
「洗面器、持って来て」
今日は洗面器なんだ。
バスルームから洗面器を持って来て、畳の上に置く。
こぼさないようにしないと。
なるべく洗面器から離れないように、腰を落として膝を閉じて、どちらかというと洗面器の上に正座に近い格好でしゃがむ。
足を広げてと言われないかぎりは、飛び散らないようにこの体勢でしよう。
体の少し前に手を付いて、僅かに前傾姿勢で洗面器の上に跨がる。
もう少しで、おしっこがでそうだ。
あっ不思議、私この体勢でおしっこをしようとしているだけなのに、どうしようとっても感じてきている。
目の前のベッドに那智さんが腰掛けてこちらを見ているだけで、猫が猫トイレにおしっこをするよな格好をしているだけで、どうしてこんなに気持ち良いのだろう。
何度となく那智さんにおしっこをする姿を見せていて、恥ずかしく嬉しく、なんだか気持ち良いと感じていたことはあるけど、こんなにはっきりと体が震えるほどに快感を覚えたことはなかった。
不思議、いつもと同じ排泄行為なのに、感情がリンクすると体の快感に跳ね上がる。
心が気持ち良いが、体が気持ち良いになる瞬間。
これって、やっぱり進化?成長?しているのかな。
那智さんのいう、快感の記憶の積み重ねなのかな。
だからといって、これから先いつもいつもおしっこするたびに、こんなになるわけじゃないから、体って不思議。
だけど、それをまた、待ち望んでしまうことだけは、確かなこと。
『非日常的な日常』
私はいろんな場所におしっこをする。
洗面器、ビールジョッキ、コンビにのビニール袋、紙おむつの中。
もちろん普通にトイレですることの方が多いのだけど、ほとんど全部那智さんに見てもらう、そして、拭いてもらう。
那智さんは、私におしっこを飲ませる時には「飲ませたい」「飲ませてあげる」という可愛がる感情が働いている。
では、私のおしっこをする姿をほぼ全部(お店の中とかはなしでね)見るのは、どんな感情が働いているのだろう。
本当にほぼ毎回だ。
見ていないのは、数年の付き合いで2、3回あるかないか。
タバコを吸っていても、ベッドでくつろいでいても、遅れてでも来てくれる。
くつろいでいる時などは、申し訳ないから「いいですよ、ひとりで行きますから。」ともじもじして言うけど、よいしょと腰を上げて来てくれる。
何か取り込み中の時は「まだ、ダメ」と我慢させたりもする。
それで、おしっこが出ている様子を見て、私をからかったり気持ちよくさせたりする場合もるけど、足も開かせずただ眺めていて、最後拭くだけなんてこともある。
これは、どんな感情なのでしょう。
多分、はじめのころは「恥ずかしがるりん子」を見るのが楽しかったはずだ。
現に、とても恥ずかしかった。
付き合って間もないころ「このまま一年間くらいおしっこをするところを見て拭いて、その後自分で拭かせたらどんな気持ちになると思う?」と聞かれたことがあった。
「多分、寂しいと思ってしまうと思います」と答えた。
「自分で拭くことが、恥ずかしくなるはずだよ。」というお返事。
そのときは、そうか、もっと恥ずかしくなるためにしているんだなと思った。
それは間違いではない、でも、やっぱり私の答えが私の気持ちに一番近かったと思う。
「寂しい」のだ。
見てもらえなくて、拭いてもらえないと、寂しいの。
いつからそう思うようになったのかははっきりしないけど、きっと私がそう感じるのと同じように那智さんの中でも、おしっこをする姿を見る拭くことの意味合いが変わって来ているのではないかしら。
恥ずかしがらせたいは、もちろんあるでしょうけど、「委ねさせ、委ねている」私たちの関係の象徴のような行為になっているように思う。
小さい子の世話をしているみたいな行為。
だから、毎回見る、見てあげる、とにかくチラッとでも見る(笑)
先にトイレに入っていて「そろそろ出ます〜那智さ〜ん」なんて呼ぶ(笑)
いやらしい空気ではなく、なんだか微笑ましいくらいだ。
もし私たちが夫婦だったら、そんな毎回付き合っていられませんね、なんて言ってみたり。
それでも、微笑ましくならずに、性的な空気になる時もある。
おしっこしてもいいですか?
ホテルの入って、すぐにトイレに行きたくなってしまった。
「洗面器、持って来て」
今日は洗面器なんだ。
バスルームから洗面器を持って来て、畳の上に置く。
こぼさないようにしないと。
なるべく洗面器から離れないように、腰を落として膝を閉じて、どちらかというと洗面器の上に正座に近い格好でしゃがむ。
足を広げてと言われないかぎりは、飛び散らないようにこの体勢でしよう。
体の少し前に手を付いて、僅かに前傾姿勢で洗面器の上に跨がる。
もう少しで、おしっこがでそうだ。
あっ不思議、私この体勢でおしっこをしようとしているだけなのに、どうしようとっても感じてきている。
目の前のベッドに那智さんが腰掛けてこちらを見ているだけで、猫が猫トイレにおしっこをするよな格好をしているだけで、どうしてこんなに気持ち良いのだろう。
何度となく那智さんにおしっこをする姿を見せていて、恥ずかしく嬉しく、なんだか気持ち良いと感じていたことはあるけど、こんなにはっきりと体が震えるほどに快感を覚えたことはなかった。
不思議、いつもと同じ排泄行為なのに、感情がリンクすると体の快感に跳ね上がる。
心が気持ち良いが、体が気持ち良いになる瞬間。
これって、やっぱり進化?成長?しているのかな。
那智さんのいう、快感の記憶の積み重ねなのかな。
だからといって、これから先いつもいつもおしっこするたびに、こんなになるわけじゃないから、体って不思議。
だけど、それをまた、待ち望んでしまうことだけは、確かなこと。
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