死を意識する
りん子的独り言(エラそう)
今日はお休みの人が多いかしら!?
ゆっくり休んで、日々の疲れを取ってくださいね〜。
そんなさわやかな休日の朝には相応しくないお話です。
気を付けてね。
わたしが務めていたころ、まだ高校を卒業して間もなくて学生気分のまま働きはじめたようなころ。
同じ部署にはアルバイトの大学生が何人もいた。
年も近く学生気分のわたしたちは、上司や他の年上の社員よりもずっと身近に感じられて、よく遊んでいた。
忘年会や新年会、夏はバーベキュー、遊園地にも行った。
クラスの仲良しグループみたいだった。(まあ、その中で色恋もあるので、すったもんだもありましたけど)
もう20年も前の話。
先日、その中のひとりから十数年ぶりに連絡があった。
他のひとりのS君が入院してるので、励ましたいから久しぶりに会わないかって。
そんなメールをもらって「あはは、なんだかんだかこつけて、Mちゃんに会いたいんじゃないの!?」とわたしがいまでも連絡を取っている当時アルバイトの間で「シンデレラ」だったMちゃんと、彼らの色恋を思い出したりして、仲介役を嘆いたりしてみた。
そうこうしてるうちにあらためて連絡が来た。
それは、とてもショックな内容だった。
S君は癌に侵されているのだそうだ。
数年前に発病し、入退院を繰り返し、内蔵のいろんな部分を取り除いて、それでもダメで抗がん剤治療をしていたそうだ。
一ヶ月ほど前は、まだメールを打てるような状態で「来月退院できるから」ということだったので、それを聞いて「励ます会」を企画したらしい。
でも、ここ2、3日で状況は変わり、もうモルヒネを打つという段階になってしまったそうだ。
要するに、手の施しようがなく、あとは痛みを感じないように麻薬で意識を麻痺させるしか道がないということ。
この1、2週間がやまなの。
だから、もう退院はもちろんメールを打つこともできないと、S君の奥さんから連絡があったのだそうだ。
とても、とても、ショックだった。
わたしには、あの元気だったS君しか記憶にない。
面白味ないくらい真面目な人で、穏やかな人だった。
卒業して大きな企業に勤めたことまでは知ってる。
信じられない。
わたしよりちょっと年上だったから、まだ40そこそこのはず。
また別な話で、先日も、元同僚の奥様が心臓病で危険な状態だと聞いた。
40半ば、それまではごく普通に生活していて、急な発症だったそうだ。
その人とも会社のバーベキュー大会でご一緒したことがある。
わたしのアルバムにはその時まだ赤ちゃんだった長男くんと一緒に写ってる集合写真だってある。
「死」というものを意識せざるを得ない場面に直面すると、「明日は我が身、日々をちゃんと生きよう」と襟を正す気持ちになるのは当然なんだけど。
なんだか、そんなきれいな感情じゃないものも湧く。
悔しい。
なんだかとても悔しいなあ。
壁に思い切り何かを投げつけて八つ当たりしたい気分。
元気な姿しか記憶にない方の「死」のイメージは、津波がすべてを飲み込むのをなす術無く凝視しているような気分。
途方に暮れて、悔しい。
当人やご家族の無念に比べたら、そんなのセンチメンタルな感情に過ぎないのだろうけど。
「戦争は日常を奪う」と書いてあるのを読んだことがある。
平和を奪うなんて漠然とした美しいものじゃなくて、もっと生々しい日常を奪う。
普通に食べて、テレビを観て笑って、お風呂に入って寝て、そんな日常。
人は日常を奪われると、気が狂いそうになるのではないかな。
身近な大切な人の「闘病」や「死」は、それに近いのかもしれない。
日常を奪われても、それでも狂わずに生きてる方々に頭が下がります。
S君たちとお酒飲んではしゃいでいたころよりも、確実に「死」を意識する年齢になっている。
失いたくないもの、残していくもの、大切なものが年を追うごとに増えてる、死を意識すると余計にそれらは大切なものとして、わたしの目の前に並び、困ったものねとため息をつく。
でも、何も知らずにはしゃげていた頃よりも、きっとわたしは幸せ。
あんまり結論出てないのだけど、やっぱりわたしはわたしの周りの大切な人を後悔することなく毎日愛するしかないのかな〜。
そう思って、脈絡なく那智さんに「愛してます」とメールを打つ。
あっ、それと、健康診断ね(笑)これも大事と最近は思う。
「死」を意識する場面に遭ったとき、自分の「死」?大切な人の「死」?どちらを思って胸が苦しくなるのでしょう?
両方は両方なんだけど、どちらかと言えば、わたしは、どっちかな…?
不謹慎にもそんなこと考えちゃった。
今日はお休みの人が多いかしら!?
ゆっくり休んで、日々の疲れを取ってくださいね〜。
そんなさわやかな休日の朝には相応しくないお話です。
気を付けてね。
わたしが務めていたころ、まだ高校を卒業して間もなくて学生気分のまま働きはじめたようなころ。
同じ部署にはアルバイトの大学生が何人もいた。
年も近く学生気分のわたしたちは、上司や他の年上の社員よりもずっと身近に感じられて、よく遊んでいた。
忘年会や新年会、夏はバーベキュー、遊園地にも行った。
クラスの仲良しグループみたいだった。(まあ、その中で色恋もあるので、すったもんだもありましたけど)
もう20年も前の話。
先日、その中のひとりから十数年ぶりに連絡があった。
他のひとりのS君が入院してるので、励ましたいから久しぶりに会わないかって。
そんなメールをもらって「あはは、なんだかんだかこつけて、Mちゃんに会いたいんじゃないの!?」とわたしがいまでも連絡を取っている当時アルバイトの間で「シンデレラ」だったMちゃんと、彼らの色恋を思い出したりして、仲介役を嘆いたりしてみた。
そうこうしてるうちにあらためて連絡が来た。
それは、とてもショックな内容だった。
S君は癌に侵されているのだそうだ。
数年前に発病し、入退院を繰り返し、内蔵のいろんな部分を取り除いて、それでもダメで抗がん剤治療をしていたそうだ。
一ヶ月ほど前は、まだメールを打てるような状態で「来月退院できるから」ということだったので、それを聞いて「励ます会」を企画したらしい。
でも、ここ2、3日で状況は変わり、もうモルヒネを打つという段階になってしまったそうだ。
要するに、手の施しようがなく、あとは痛みを感じないように麻薬で意識を麻痺させるしか道がないということ。
この1、2週間がやまなの。
だから、もう退院はもちろんメールを打つこともできないと、S君の奥さんから連絡があったのだそうだ。
とても、とても、ショックだった。
わたしには、あの元気だったS君しか記憶にない。
面白味ないくらい真面目な人で、穏やかな人だった。
卒業して大きな企業に勤めたことまでは知ってる。
信じられない。
わたしよりちょっと年上だったから、まだ40そこそこのはず。
また別な話で、先日も、元同僚の奥様が心臓病で危険な状態だと聞いた。
40半ば、それまではごく普通に生活していて、急な発症だったそうだ。
その人とも会社のバーベキュー大会でご一緒したことがある。
わたしのアルバムにはその時まだ赤ちゃんだった長男くんと一緒に写ってる集合写真だってある。
「死」というものを意識せざるを得ない場面に直面すると、「明日は我が身、日々をちゃんと生きよう」と襟を正す気持ちになるのは当然なんだけど。
なんだか、そんなきれいな感情じゃないものも湧く。
悔しい。
なんだかとても悔しいなあ。
壁に思い切り何かを投げつけて八つ当たりしたい気分。
元気な姿しか記憶にない方の「死」のイメージは、津波がすべてを飲み込むのをなす術無く凝視しているような気分。
途方に暮れて、悔しい。
当人やご家族の無念に比べたら、そんなのセンチメンタルな感情に過ぎないのだろうけど。
「戦争は日常を奪う」と書いてあるのを読んだことがある。
平和を奪うなんて漠然とした美しいものじゃなくて、もっと生々しい日常を奪う。
普通に食べて、テレビを観て笑って、お風呂に入って寝て、そんな日常。
人は日常を奪われると、気が狂いそうになるのではないかな。
身近な大切な人の「闘病」や「死」は、それに近いのかもしれない。
日常を奪われても、それでも狂わずに生きてる方々に頭が下がります。
S君たちとお酒飲んではしゃいでいたころよりも、確実に「死」を意識する年齢になっている。
失いたくないもの、残していくもの、大切なものが年を追うごとに増えてる、死を意識すると余計にそれらは大切なものとして、わたしの目の前に並び、困ったものねとため息をつく。
でも、何も知らずにはしゃげていた頃よりも、きっとわたしは幸せ。
あんまり結論出てないのだけど、やっぱりわたしはわたしの周りの大切な人を後悔することなく毎日愛するしかないのかな〜。
そう思って、脈絡なく那智さんに「愛してます」とメールを打つ。
あっ、それと、健康診断ね(笑)これも大事と最近は思う。
「死」を意識する場面に遭ったとき、自分の「死」?大切な人の「死」?どちらを思って胸が苦しくなるのでしょう?
両方は両方なんだけど、どちらかと言えば、わたしは、どっちかな…?
不謹慎にもそんなこと考えちゃった。
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